霊鑑寺:尼門跡寺院としての書院の意匠
2017年 02月 28日
霊鑑寺は「椿の寺」として知られ、「谷の御所」とも呼ばれる尼門跡寺院である。
1686年、後西天皇がなくなり、院御所をこの地に移しており、表門、玄関、書院はその時のものという。書院、居間に狩野永徳(1543-1590)、元信(1476?-1559)筆という「四季花鳥図」がある。また、円山応挙(1733-1795)、岡本豊彦(1773-1845)も描いている。書院の上段の間、二の間に描かれている「官女唐戸遊図」は尼門跡に多く見られる。
庭もよく知られており、江戸中期の作と言われ、東に控える大文字山の稜線を取り入れつつ、地形を活かした庭が賞賛されることがあるが、保存状態は必ずしもよくないため、その良さはわかりにくい。書院の過剰な意匠は目をひく。尼門跡寺院であっただけに、きらびやかで繊細な女性的な意匠になっている。
1686年、後西天皇がなくなり、院御所をこの地に移しており、表門、玄関、書院はその時のものという。書院、居間に狩野永徳(1543-1590)、元信(1476?-1559)筆という「四季花鳥図」がある。また、円山応挙(1733-1795)、岡本豊彦(1773-1845)も描いている。書院の上段の間、二の間に描かれている「官女唐戸遊図」は尼門跡に多く見られる。
庭もよく知られており、江戸中期の作と言われ、東に控える大文字山の稜線を取り入れつつ、地形を活かした庭が賞賛されることがあるが、保存状態は必ずしもよくないため、その良さはわかりにくい。書院の過剰な意匠は目をひく。尼門跡寺院であっただけに、きらびやかで繊細な女性的な意匠になっている。
by ten_no_koe_x
| 2017-02-28 01:39